伯父が生きた証を残したい-旧日立航空機株式会社立川工場空爆

2014年5月5日 12時50分 | カテゴリー: 人権と平和, 活動報告

後ろが「旧日立航空機株式会社立川工場変電所」。穴だらけの壁が激しい爆撃を物語っています。

1945年4月24日、米軍のB-29の爆撃により伯父(母の兄)が爆死しました。場所は、日立航空機株式会社立川工場。現在、立川工場の変電所跡が都立東大和南公園内に襲撃を受けた当時のままの姿で残っています。1986年、この公園が開園しましたが、整備に当たり変電所を解体する話が持ち上がったそうです。しかし、市民の「残してほしい」という声により、保存が決まったと説明板にありました。

伯父は、横浜工専(現横浜国大機械科)を卒業後、軍需監督官として立川工場での任務に就きました。そして、4月24日の爆撃により死亡。伯父の遺体はすぐに部隊の安置所に運ばれたせいか、立川工場での空襲死没者一覧に伯父の名前はありません。1945年4月24日までこの立川工場で生きていた、という記録がないのです。軍需監督官10人のうちで亡くなったのは伯父1人だったという話を、私がもの心つくころから繰り返し、繰り返し祖母から聞かされて育ちました。

20年ほど前、私の両親はこの変電所跡にお線香を手向けに行きました。市役所に足を伸ばし、戦死した自分の兄の名前を加えてほしいと頼んだところ、遺品を持ってくれば加える、と言われたそうです。しかし、伯父の遺品は、祖父母がそれぞれ亡くなった時に棺に入れたので、現在残っているのは伯父が出征する時に家族と撮った写真だけ。泣く泣く帰ってきたと言っていました。

変電所前では「うまかんべぇ祭」が賑やかに行なわれていました。

4月26、27日、都立東大和南公園で「うまかんべぇ祭」が開かれ、その両日には変電所内部を公開するという話しを聞き、私は唯一手元に残るその写真を持って東大和市に向かいました。おおぜいの来園客で賑やかなイベント会場にちょっと異様な感じで建つ穴だらけの変電所跡を目の当たりにして、ちょっと胸が詰まりました。 

 

 

 

館長さんとお話をして、市の記録の方には名前を入れるよう検討していただけることになりましたが、慰霊碑の裏に刻まれている死亡者の名前に加えるのは、慰霊碑を立てた戦災犠牲者慰霊碑建立委員会が今はないため、難しいとおっしゃっていました。 

人が生きたことを証明することって、結構難しいことがわかりました。父が亡くなった後、手続き上取り寄せた「改製原戸籍」(生まれてから死ぬまでどこでどう暮らしたかが書かれている履歴)には何ページにもわたり、父の両親・兄弟姉妹の事、母の両親、母の兄がどこで戦死したかということも書かれてあり、驚きました。コピーしておけばよかった!

戦没者一覧の24日に伯父の名はない。

今年の4月24日は、伯父がなくなって70年目であり、私が変電所跡に行った日が祖父の命日だったことを後で知り、めぐりあわせを思ったのでした。