『いのちの食べかた』—「いのち」と「食材」

学生時代の鶏の解体を思い出しました

見逃していて、一度見たいと思っていた映画を見てきました。いのちの食べかた。
ナレーションがなく、淡々と動物が食材に変わっていく映像が映しだされていきます。
ヒヨコを「動物」ではなく「もの」として扱う。かごにポイポイ投げ込む。それは「いのち」ではなく「もの」という扱いです。たぶん、ヒヨコが青空の下にいたら「生き物」で薄暗い部屋の中のケージにぎっしり詰まっていると「もの」になるのでしょうか。

鶏、豚、牛の「いのち」を、人間が生きていくために口にする「食材」に換える工場を映し出していました。要所、要所に人間の手が入りますが、ほとんどがオートメーションで解体が進んでいきます。
私は食物学専攻でしたので、研究のためもラットの解剖や鶏の解体を行ってきました。最初の1匹、1羽を解体する時は目をつむる感じですが数匹、数羽後は、心で手を合わせながら作業していく…、そんな感じを思い出しながら見ていました。牛、豚の解体はこうやって行うんだァ、と。感覚が麻痺していくのか、「仕事」と割り切っているのか。あ、これ、決して批判しているわけではありません。
屠畜場で働く人々の食事風景も流れます。紙コップに入った飲み物(ミルク?コーヒー?それとも紅茶?)とサンドウィッチだけ。あの肉たちは飛行機に乗って世界各国の飽食の国へと運ばれていくのでしょうね。食のグローバル化。

動物の「いのち」を人間が「いただく」ことで、人間は「いのち」をもらっている、生きている。豚、鶏、牛がぎっしり詰まった飼育場の映像を見ながら、ふと、宇宙から地球を見たら、所々にぎっしりと寿司詰め状態でうごめいている人間たちも「餌」を食べて生きているわけで、同じかも、と思ってしまいました。しかし、彼らは人間が生きるために役に立っていますが、人間はなんの役に立っているのか・・・・・・。

先日、「○○ハム△△工場」でつくられた食品からシアン化合物が検出される事故がありました。食品の生産現場は「工場」と呼ばれ、「工業製品」をつくっているのと同じ感覚になっているのではないでしょうか。あくまでも食品を扱うところは「食品加工所」だという感覚をなくしていただきたくない…と思いながら映画を見ました。