「放射能に色がついていないからいいのかもしれない……と深い溜息……をつく」

イトー・ターリさんのパフォーマンスアート

パフォーマンスアーティストのイトー・ターリさんの公演を観て来ました。パフォーマンスアートは「芸術家自身の身体が作品を構成し、作品のテーマになる芸術」とあります。ターリさんの感性が社会の出来事、矛盾点を鋭く突き、表現していきます。

最初に観たのは、従軍慰安婦問題、沖縄の少女暴行事件を取り上げたもので、難しいことはわかりませんがこういう表現の仕方があるのか、といささかショックも受けました。
2回目の今回は、福島の原発事故後、ターリさんは福島県伊達市に住むお友だちとの会話のなかで福島の痛みや怒りを知ります。それがこの公演につながったそうです。

お友だちをはじめとする福島原発事故被害者の方たちが、「棄民」と自らのことを表現しているのを見聞きし、沖縄の人々が「差別」という言葉を使わなければならない現状と重なっている、と訴えます。民の痛みに手を差し伸べるのが政治のはずなのに、為政者の便宜ばかりを優先している、と。ターリさんの活動の根底にあるのは、「人間の生命を軽んじることへの怒り」です。

放射能は見えないばけもの。見えないからこそ人に恐怖を与え、見えないからこそ人を油断させる。
だからかえって「色がついてないからいいのかもしれない…」と言って深い溜息をついたお友だちの「言葉」に深い悲しみを読みとり、作品づくりに駆り立てられたのだと思います。

ターリさんは、「パフォーマンスアートをやる人間として(反原発を)どう表現するのかきついものがあった。(反原発)運動に走った方がいいのではないか、とも」とアフタートークでおっしゃっていました。私は、人それぞれ表現の仕方は違ってよくて、デモや集会に参加する人、文字で表現する人、音楽で表現する人、ボディメッセージも。

問題は、命にかかわることを黙って見過ごすことです。原発「YES」でも、「NO」でも、意見を言える社会が成熟した健全な社会だと思います。日本はまだ成熟した社会に到達していないと思われる節もあります。「原発Yes」と言うと袋叩きに合う、「原発NO」と言うと反政府だとして「左」だと白い目で見られる、ということはおかしな社会です。それと、ことなかれ主義、まぁ、まぁ、まぁと丸く収める日本の文化。生活の知恵でもあるのでしょうが、日本人は意見を闘わせることに慣れていないのも事実です。

原発問題を、自分と違う意見も聞き、そして自分の意見を言い、意見の積み上げをしながら大事なことは市民が決める、そういった社会の到来にしたいです。